紙の手帳が人気となっているらしい

紙の手帳が人気となっているらしい

そういうニュースを最近にみた。

私も、20年と少しの間、紙の手帳を使っている。その間、同じ銘柄のものを使っている。最初の年にそこそこの投資をして手帳カバーを購入して以来、毎年リフィルを買い続けている。20年以上たつのにいまだに使い続けているとは、使い始めた当時は思いもよらなかっただろう。

手帳を使い始めたきっかけは、一本のボールペンだった。誰にもらったかは覚えていないが、誰かにペンをもらった。千円くらいの見た目のペンだったと記憶する。筆記具メーカーの高級ペンというわけではなかったのだけれど、書き味が私にはぴったりだった。それまでの私は、シャーペン付き三色ボールペンを使っていたのだが、価格的にはむしろ、三色ボールペンのほうが高かったくらいかもしれないけれど、とにかく、もらったペンの書き味が私にフィットした。

そうなると、いろいろなものを書きたくて書きたくて仕方なくなった。当時の私は慣れない技術営業を海外で始めたころで、客先との打ち合わせに出席しても理解できないが多すぎて、それらを会議後に調べるために見たもの・聞いたことを書き留めていた。そんなこともあって、A4 のキャンパスノート1冊を3か月くらいで使い切るくらい書いていた(大きい字で広い行幅でメモしていたのでノートの消費が早かったというのも大きな理由)。もちろん、これだけでは足りないというわけではなかったのだけれど、仕事のメモと違うものをもっと書きたくなった。それで考えた結果が、ちょっとよさそうな手帳を使おうとなり、ペンは変われど手帳はその時から今に至る。

ペンやら業務用ノートの話になってしまったので話を手帳に戻すと、今年は今までで最も多く手帳に書き込んだ年になった(まだ今年は終わっていないけれど)。「感想を持つこと」が今年の目標の一つなのだけど、感想を持ったらメモに残すようにして、その記録先を手帳にしていたら、予定以上にメモが積みあがった。もう一つの今年の目標である「使い切る」のほうも、メモを手帳に埋めることで達成した感覚(まだ今年は終わっていないけれど)。

最初に書いたように、私は毎年同じ銘柄のリフィルを買っているので、見た目のよい手帳とか機能性の高い手帳といった人気手帳とはちょっと毛色が違うのかもしれないけれど、手帳仲間が増えることは喜ばしいこと。ペンを起点に私が手帳好きになったように、多くの人が書き味やインクを楽しんでくれるのもまた嬉し。

ご褒美システムの導入 – 目標設定

ご褒美システムの導入 – 目標設定

新年を間近に控えた中途半端なところながら、もともと気になっていた体重の増加が最近になって目立つため、しばらくアルコールを控えてみようと思い、12 月1日より実行に移すことにした。海外にいるので忘年会、新年会といったことを気にする必要もなく、12 月からの停酒はタイミング的にはあまり大変なことではない。外的要因よりも、自分自身の気持ちの持ちようの方が成否を決める。

私が何かを始める場合、目標を達成するか開始早々に挫けるかのどちらかがほとんど。途中まで実行できたのに達成できなかった、というのはあまりない。なぜなら、勿体ないお化けがでるからだ。せっかく今日まで続けてきたのに今やめたら勿体ない、という気持ちが生じる。しかし、開始早々だとやっぱり止めた、となりやすい。禁煙も最初の三日、三か月というが(三日、三か月、三年は運転免許の安全に関することだっけ?)、私もスタートでうまくいけばなんとかなることが多かった。

よって、開始してしばらくたてば完走できる可能性が高まるので特にニンジンをぶら下げる必要はないのだけれど、今回は、ご褒美システムの導入を考えてみたい。今回の目標設定は、体重増加を止めたいのでアルコールを控える、ということなので、一定の体重減が見られたところで上限を決めてアルコールを楽しむご褒美を設定したいと思う。とりあえず、今より3kgs 減少したところで酒席を設定するということにしようかと思っている。その次は、もう2kgs(現在比で▼5kgs)で第二回酒席、全部で7kgsの減少で停酒を取り消す案を検討中。

「ほどほど」ができない私はオール・オア・ナッシングな傾向なのだが、今回は、ご褒美システムがきちんと機能するかどうかの試金石にしてみたい。これが機能すれば、「ほどほど」ができる大人になったと私の成長を実感できそうだ。

報道の自由度が低いはずが政府批判ばかり

報道の自由度が低いはずが政府批判ばかり

国際NGO「国境なき記者団」が発表する報道の自由度ランキングが度々メディアで取り上げられる。つい最近にも、私がメディアを通じて見聞きしたものだけで、複数の機会があった。

進行役の人が、自由度ランキングの高い国として北欧を例にあげ、そういった国では忖度せずに政府批判をするといったような説明をしていた。翻って日本は政府批判をしないのでランキングが低いとのこと。

その進行役の人は、何かあれば政府批判ばかりしている人と私には映っている。そう言わないとテレビ局から仕事がもらえないのか、自分のことは棚に上げる人なのか、はたまた、自分がいつも言っていることを忘れてしまうのか真意は判らないのだけれど、とても不思議。

数字は嘘をつく

数字は嘘をつく

「数字は嘘をつかない」という表現を聞く機会は多い。その表現は間違いとは言えないが、私の意見では、数字がいつでも正しく表示されているとは言えないと思っている。注意して数字を見ることを怠ると、意図をもって数字を作成した人にミスリードされる。多分、この意見に同意できる経験がある人は多いと思う。

時事問題を解説するテレビ番組が多い最近、ある番組で、一つの話題について複数のグラフを用いて解説しているシーンがあった。この番組で使っていたグラフの殆どは縦軸はゼロから始まるグラフだったのに、これを言ったら盛り上がりそうな話題のところだけ、ゼロとその次の座標の間に波線を入れて増加率がある時点で急変したように見せて、「最近激増しています」という解説をやっていた。最初は、ほかのグラフ同様にゼロからの座標にしたところ、その番組(またはテレビ局)の作成者の思想を流布するための急増しているような印象付けができないグラフに仕上がってしまって、縦軸を変えて印象操作をしようとしたんだろうと疑っている。変化率がわからないグラフなのに、解説は変化していますとやっていた(この日のこの番組では、別の話題では波線グラフを一切使っていなかった!)。

ちゃんとした人にしか数字を扱わせてはいけない。
波線グラフをエクセルで作ろうとすると、座量の境界値単位の取り方をうまく設定しないと難しいので私はあまり波線を使わないが、グラフ化に採用する期間を調整して、社内で私の主張にあうようなチャートを作ったりはする。私がやっているのだから、ほかの人もやっている。だから、数字を言われるがままに信用してはいけないのを私も知っている。

外部モニターを売りにする軽自動車のCM

外部モニターを売りにする軽自動車のCM

私は、クレイマーにはなりたくない。
私は、文句言いではない。
私は、批判が正義だとは思っていない。



だけど、死角にいる歩行者を見えるようにしたり、狭い道ですれ違う対向車との車幅感覚を補う外部モニターを売りにする自動車のCMで、対向車とすれ違う時にモニターを凝視している運転手を映すのはちょっと誤解を与えそうな気がする。そこだけ見てちゃ、だめでしょう。

CMの作成会社がそういうシーンを入れることを提案するのはよい。
だけど、発注者である自動車会社が安全に反するシーンをCM(フィクション)だからといってゴー・サインを出してはいけないと私は思う。

私はクレイマー?尤もな意見を言っている?

老眼の定義を正しく知る

老眼の定義を正しく知る

日本資本の眼鏡店がやってきた。もしかしたら前からあったのかもしれないけれど、私がたまに買い出しにゆくモールには最近やってきた。

そこへ偵察にいってみた。

私の眼鏡は遠近両用。近くは見えて、遠くが見えない。だから、仕事中でいえば、パソコンを見る時は眼鏡を外し、会議資料がプロジェクタでスクリーンに投影されたものしかない場合は眼鏡を掛ける。スイカやパスモが登場する前は、普段乗らない路線の電車に乗る時は運賃表を見ないといけないので眼鏡が必要だったが、車内で本を読むのは眼鏡は不要。まあ、今は電子マネーが乗った路線の運賃を勝手に引き落としてくれるので、知らない土地でも眼鏡は不要になったので車中も車外も眼鏡は不要。

だから、眼鏡の掛け外しが頻繁に発生した。こうすると、視力の低下が早まるというのが十数年前の定説っぽかったので、遠近両用ならば外す必要性が薄れ、結果として視力低下の進行を遅らせられると思った。それ以来、遠近両用メガネ派に転向した(「それ以来」と書くと、何度も作り替えた眼鏡が全て遠近両用だったように誘導する表現だけれど、実は、その時に作った眼鏡を今でも使っているので最初の一本限り)。

一時休暇で日本に行く機会はあるけれど、遠近両用を作ってもらうのに必要な期間には足りず、遠近両用派に転向後も、特定の用途に両用でないメガネを新調していた。

が、しかし。日本の眼鏡チェインができたので、ここで作れるか相談したところ、なんだかよさそう。日本の店でなくても遠近はあるけれど、以前に書いたように日本ですら眼鏡を上手に作れたことがないので、それを海外でしかも遠近両用をチャレンジする気になれなかったが、明るい未来が見えてきた。

大都会まで出ていかないといけないけれど、便利になったなあ、この国。

タイトルに書いた「老眼の定義」について書くのを忘れていた。近くが見えないのが老眼だと私は今日まで思っていた。ところが、目の検査を担当頂いた日本人の方によると(現在、期間限定で当地店舗で研修中の由で、もうすぐ日本の本来の勤務地に戻ってしまうそうなので、日本語が通じるうちにメガネを作りたい)、調整ができなくなることが老眼とのこと。近眼の私は、以前は一つのメガネで近くも見えていたが、今は、遠くを見るためのメガネでは近くは見えず、裸眼にしないといけない。近くが見えても、これは立派な老眼らしい。

私は近くが見える老眼。

プーマに買収報道

プーマに買収報道

中国のスポーツ用品大手がプーマ買収に動いているという報道があった。

アシックスも検討しているようにも書いてあったが、別のメディアは、アシックスは検討の事実はないと対外発表を引用して報じている。一度、火消しをしているだけなのか、本当に検討の事実がないのかは外部の私には知る由もない。あるいは、アシックスに買って欲しいと思っている人が、市場やアシックスがどんな反応をするのか、勝手に観測気球を打ち上げているだけかもしれない。

いち消費者の勝手な立場からすると、プーマは今のプーマのままでいてほしいと思っている。あるいは、元さやというかアディダスに買われて兄弟仲良くというのもよいかも。私は、小学生と高校生の時に Tシャツと靴下を買ったことくらいしかプーマ歴はない。靴は、兄のおさがりのサッカーシューズを履いていたことがあるが、自分で買ったり親に買ってもらったことはない。プーマの経済性にこれっぽっちも関与したことのない私には、プーマの方向性の希望を言える権利はないのだけれど、プーマは今のプーマでいてほしい。中国企業に買収されたのちもプーマというブランドはずっと生き残るはずだと思うけれど、それでも、今のプーマのままでいてほしい。次に何か買う機会があり、プーマの製品群にそれが含まれていれば、その時はプーマ製品を優先的に検討してみようかな。

閉店前の在庫一掃キャンペーンじゃないよね?

閉店前の在庫一掃キャンペーンじゃないよね?

お気に入りの種類のコーヒー豆が極まれにしか手に入らなくなったのは何度か書いた。もう1年以上、この状態が続いている。

また、私が暮らす町では、そのコーヒー・チェインのモール内店舗が全て閉店して、今は、独立した建物で営業をする店舗のみとなってしまったこともここで書いた。

先日に、久しぶりにお目当ての豆があったので購入した。その際に、店の人が、冷たい飲み物用のストローが付いたカップをくれた。なんの景品か尋ねると、日本円で 3,000 円弱の買い物をした人へのおまけということだった。何か月か前に、別の町のその系列店を利用した時にも、樹脂製のバッグをおまけでもらった。その時は、買い出しに行った都会の店舗で、お気に入り豆が複数パックの在庫があり、ありったけを買ったために結構な買い物金額になった。加えて、買った豆の嵩もそれなりになったので、使った金額と持ち帰りのエコバック的に使ってという主旨にて店のご厚意でもらったのかと勝手に推測し、背景を質問しなかった。

理由はさておき、おまけをもらうことが続いたりしていて、閉店前の在庫一掃キャンペーン、もってけ泥棒的に配っているのだとしたらちょっと心配だなあと考えたりもする。以前であれば、そのコーヒー・チェインのアプリでキャンペーン告知があったのだけれど、3,000 円でカップ・プレゼントは見当たらないから、店の判断で在庫減らしのために実施しているんじゃないかとの疑いがある。しばらく様子をみてみようと思うけれど、私に分かるような変わった様子が見えるとすれば、その時はもう手遅れというものだ。やはり、代替品探しは急務。

Wifi はダメで携帯の回線を使う必要ありと

Wifi はダメで携帯の回線を使う必要ありと

日本の携帯回線を解約せずにしたままにいる。最小限の契約内容へ変更した上で持ってきている。回線を使用することはまずないので、回線使用料はできるだけおさえたい。会員登録やメールアドレスなどでも電話番号は必要。本当に必要な連絡が電話で届くことも年に何度かあることにはある。二段階認証の通知先の選択肢に電話回線(SMS)しか使えない企業もあり、日本の電話番号を放棄することはちょっと現実的ではないと思っている。

その携帯電話の契約内容は、携帯キャリアのウェブサイトで自分のメニュを見ればゆいのだけれど、セキュリティが高くなってきた最近のログイン認証の環境下では、ログインするのも一筋縄ではないことがある。携帯電話会社だからなのか、ログインするためには携帯でパスキー処理する必要があるのに、その携帯での認証のために携帯回線を使用する必要があるのだ。これは wifi ではできない設定になっている。日本で契約した番号を海外に持って行く人のことは何とも思っていないのは仕方ないが、wifi で認識できないのは技術的にむずかしい話なのだろうか。

契約を解除したくてもできない状況にしておいて、ひどい仕打ちである。あと何年かたって世界が今よりもっと小さくなれば、海外の携帯電話番号でも日本のサービスに登録できるような日が来ることを願うばかり。

考えを変えたのか、そういうフリをしてたのか

考えを変えたのか、そういうフリをしてたのか

国会議員または議員になろうとする人は、選挙のためなら自分の思想を押し殺したらキャラ設定したりするのだろうか。

今年 2025 年の参院選で久々に立候補するも落選した人が直近の代表例。その人は、とある党の公認内定を受けたが土壇場で取り消しにあい、無所属で出馬して落選した人。もともとは、別の党所属の衆議院議員だったが、ここしばらくは出馬もしていなかった人。

以前は、与党にいちゃもんをつけることを目的に議員になったとしか思えない言動をしていた人だったのに、最近は、与党・野党に関係なく、それが道理にあう考え方だよね、という発言をしている記事を多く目にする。記事を通してしかその人の発言を聞いていないから、もしかしたら私が目にしていないだけで、今でも理解不能な主張をしているかもしれない。加えて、私が同調できる意見を言っているというだけで、その意見が正しいかどうかも判りはしない。ただ、その人が衆議院議員だった当時は、その人の発言の全てが納得がいかなかったので、発言の方向性が変わったのは間違いないはずだと思う。

これってその人が考えを変えたというよりも、当時から与党に近い考えを持っていたにも関わらず、公認待ちの列が長すぎて与党では出馬できそうにないから、意思をまげて野党から出馬し、その結果、自分の考えと違うことを主張せざるを得なかったということなのかなあと意地悪に想像したりする。私が思うには、国会議員のような職業の人は、何か成し遂げたいものがあり、それを必ず実行するんだという強い意志があり、その意志は長い年月をかけて築き上げてきた人となりに重なるものでもあるので、そんなに簡単に思想は変わらないと思っている。当時のイチャモン発言がキャラ設定だったと疑っているのは、こうした理由からだ。

だとしたら、残念だ。自分の意志をまげてまでそうするのが国会議員の仕事なのか。やりがいや成し遂げたいことを押し殺してまでも国会議員であることは美味しい仕事なのだろうか。もしかしたら、現役野党議員にもそういう人がいるとしたら、なんとも残念。



CM 視聴義務付け記事は読まずに閉じる

CM 視聴義務付け記事は読まずに閉じる

写真ニュースにありがちな、CM を十何秒か見ないと読めない記事は読まずにとばす。興味ある記事が期待できる時は、百回に一度くらいは CM を見ることもあるが、ほぼほぼ毎回読まずに閉じる。CM を入れるのは企業側の自由だし、それを見ずに閉じる私にも選択の自由があるから、以前のように CM なくせとは言わない。場所を貸す方は減っている広告収入を補いたいのかもしれないし、広告を出して欲しい人もなんとかして効果的に(強制的に)視聴者の目に触れる方法を模索しているのだろう。

私が気になってしかたないのは、記事を読まずに飛ばしたというデータがメディが側と広告主に届いているのかどうか、ということ。見るか見ないかは別として、まずは、「見ないとこれ以上進めないよ」というポップアップが出てくるので、これを1ビューとして広告主に報告されていたらそれは嘘だと思う。広告を観ていないから。メディアとしては、こまかな統計は自分の首を絞めることになりかねないので統計を取っていたとしても内部資料で済ませたいだろうし、広告主は実際に広告をみた数を知りたいはず。

私のような行動はどう広告主に報告されているか知りたい。

官僚出身の国会議員

官僚出身の国会議員

以前から言われていたことで、最近はよりその声が大きくなったように思われるのが、国会でのあまり意味のなさそうな野党の質問に対する世論。

日本の将来のことではなく、過去の発言についてあーだ、こーだ質問している。答えられないことについて質問している。答えさせて誰が得するのか判らないことを質問している。

各人の信条もあれば、所属政党からの指示・方針に従って質問している場合もあるだろう。人を追い詰めることだけに興味がある人もいるだろう。

今日、ふと思ったのは、彼・彼女らには特に悪気や意図もなく、単にそれがフォーマット化して、こうあるべきと刷り込まれてしまっているのが理由なのかも、と。特に、閣僚出身の人は、自身が閣僚として答弁を作成している時からそんな国会質疑に慣れっこというか、それが国会質疑だと思いこんでしまっているからとか。もう、フォーマット化してしまったから、そういった類の人たちが国会議員を引退するまで、もう治らないのかも。それまでの間に、フォーマット化した人が再生産させるかもしれないけれど、これからの若い人はそう簡単にフォーマット化されないような気もする(そう思いたい)。

ただ、とにかく時間の無駄になるような質問はやめて、将来に関わる質疑をして欲しい。

セブン・イレブンやるね!

セブン・イレブンやるね!

朝食は前日までに調理しておくようにしておいて、朝にそれを温めればよいようにしている。

しかし、先日は、前の晩にイベントがあって、それは事前に判っていたにも関わらず、前々日の夜までに準備できなかった日があった。そういった日はたまにあって、いつもの通勤経路よりも少し遠回りしてファミリーマートでおにぎりを買って対応することが多い。

当地では、首都には何年も前からファミリーマートがあった。買い出しで都会へ出かける時には、目的が買い出しゆえに日系の大きなグロサリーで買い物をするので、そこにしかなかったファミリーマートではあるものの、そこで食品を買う動機は特におきてこないのだけれど、出張でその街に行くときは、わざわざ自ら渋滞にはまりに中心地のグロサリーに行く気力はないため、ファミリーマートで買う日本風のおにぎりやサンドイッチを楽しみにしていた。

そんなファミリーマートが我が町にきて2年くらいが過ぎた。今は近所にも店ができたので、2か月に一回くらいはパリパリ海苔のおにぎりが食べたくなって、ファミリーマートを利用するようになった。

ちょっと話がとんだので元に戻すと、直近の朝食無し日もいつもの店舗で買ってから出社しようと思ったのだけれど、その日はまだ営業が始まっていない。通勤に一番便利のよい店舗は、開店直後こそ朝6時から営業していたのに、ひと月経つか経たないかの時には7時営業開始に変わってしまっていて、私の通勤時間帯には合わなくなった。ただ、少し遠回りすれば、朝6時から営業している店舗があるので今日もその少し通り店舗にいったのだが、6時でもシャッターが閉まっている。もしや、この店舗も7時営業開始に変更してしまったのか。

閉まっていては仕方ないので、泣く泣くセブン・イレブンに行った。普段は行かない店舗に初めて行った。そこでびっくり、おにぎりはあるし日本で売っているものに近いサンドイッチもある。

やるじゃん、セブンイレブン。

たまたま今回にいったセブンだけではなくて、全店舗が同じ品揃えかは調査が必要だけれど、やるじゃん、セブン。

きっとこれは、ファミリーマートという競合店舗ができたことによる影響だと思う。健全な競争は、消費者によいことが起こるということを実感した。しかもこのセブンイレブンは24時間営業だ。ファミリーマートに差をつけている。

もう一度言いたい、やるじゃん、セブンイレブン。

満足のゆく眼鏡を買うのは難しい

満足のゆく眼鏡を買うのは難しい

ZOFF がメガネスーパーを買収するという記事が少し前にあった。運営会社と眼鏡店のブランド名はことなるので、実際に買収に関わる企業名は異なるが、この買収の結果、眼鏡チェインの国内売上高順位が変動して、以下になるとのこと。

    1位   眼鏡市場
    2位   JINS
    3位   ZOFF(買収前は4位) + メガネスーパー(被買収前は5位)
    4位   パリミキ(もともとは3位)

JINS や ZOFF は眼鏡一本当たりの売上は、眼鏡市場に比べると小さそうな気がするので(調べていない)、相当な本数を売っていることになるのではないだろうか。
まあ、それにしても、20~25年前と比べるとメガネの市場はプレイヤーがだいぶ変わったという感想。

眼鏡チェインのことを言いたかったわけではなくて、自分の目にあうメガネを作るのは本当に難しいということを、メガネを新調するたびに思う。眼鏡店で視力をはかるときには、できるだけ慎重で正直に感じたままを申告するのだけれど、毎回、出来上がったそばから「何かが違う」感覚がする。乱視のせいもあるのだろうか。眼鏡店でレンズを合わせてもらっている時に、店の外の遠くを観るのを試したりできるだけのことはしているつもりなのではあるが、毎回、何かが違うのです。コンタクトをやめてから10年以上経つけれど、使用していた当時は、距離による見え方の違いはあっても、焦点を合わせた距離は違和感なく見えていたので、目と眼鏡レンズの距離が一定でないことが悪さしているのだろうか(眼鏡店でレンズ合わせに使う器具と、実際の眼鏡フレームの鼻位置が違っているとか?)。

そんな中で、かつて一度だけあうメガネを作ってくれた店があった。でも、その店はもうない。こうなると、いろいろな用途それぞれにだけ合うメガネを複数本持って置いて使い分け、それらが視力と合わなくなったら短期間で買い替えるのが必要になってくるのだろうか。

次回こそは(過去もその都度、そのつもりだったが)、目に合うメガネを作れるように更なる全力を尽くしたい。

お茶漬け

お茶漬け

動画を見ている時に、お茶漬けの CM が流れてきた。

お茶漬けといえば、1食分ずつ小分けになっているのがデフォルトの認識。ごはんの量が1食分より多くて2食分未満と半端なとき、お茶漬け1袋では足りないし、海外暮らしですぐに購入できない場所にいる時は2袋を一度に使ってしまうのは勿体ない気分になる。日本にいれば、お茶漬け1袋に鮭フレークをトッピングにすれば、ご飯が多少多くても味濃くすることができる。しかし、海外では買えても高いし、買える場所は車で何時間もかかる。

見たお茶漬け CM は、ふりかけのように大袋の製品に見えた。これは、私のような消費者には嬉しいし、多分、私のような人は毎回多めにお茶漬けの素をフリフリするので消費が早くなるため、売上が今より上がるに違いない。まさに、消費者とメーカー、小売店も含めた全員が Win – Win な商品だ。あられが多少、湿気を帯びるようなことはあるが、いずれはお湯に溶かされるので、多少の湿気は問題ないように思う。

ところがだ。CM の記憶が正しいかどうか確認しようと思って、永谷園のウェブサイトでその商品を確認しようと思ったのだけれど、小分けしたものしか商品情報ページない。あれ、おかしい。寝ぼけていたのかなあ。メーカーのウェブサイトでわざわざ確認しようと思ったこと自体、潜在意識の下で CM を疑っていたとしたら、これは仕組まれた罠か。

考えすぎだけど。

カップか水筒かで変わるコーヒーの味

カップか水筒かで変わるコーヒーの味

最近に度々起きてることなのだけど、コーヒーをおいしく感じないことがある。好きな味の豆が手に入らなくて、確かに1か月くらい前までは別の種類だったのだけど、最近はいつもの豆に戻っている。それでも何かが違う。

コーヒー豆の価格高騰で品質が変わったのか。あるいは、私の好みが変わったか。はたまた、味覚障害にでもなったか。

いろいろ考えていたところ、週末に自宅で飲んだコーヒーはいつも通りの味だったことを思い出した。自宅と会社で違うところは、カップで飲むか水筒で飲むかだ。そこで疑ったのは、ストローでアルコールを飲むと酔いやすいのは空気と一緒に飲むから、というのを思い出した。コーヒーも水筒の狭い飲み口から少ない空気とともに飲むとを味が変わるのではないか。

ネットに答えがないかと思って探してみたところ、水筒は作り置きなのでカップで飲む時より温度が低いことと、周りの雰囲気で味が変わるというのにヒットしたけれど、私にはちょっとしっくりこなかった。そんなちょっと落ち着いた感覚になったのもあってか、この疑問のことは少しの間、忘れていた。

何の拍子か、また、気になる瞬間が来た。今度は別のキーワードでネット検索してみたところ、あるわあるわ、同じようなことを言っているページがたくさんヒットした。ああ、みんな同じような経験をして、同じような感想を持ったんだと認識した。

結局、まだ理由は判っていないのだけれど、試しに会社にカップを持って行き、水筒からカップに注いで飲んだところ、いつもの味なのに気が付いた。水筒に入れている間に味が変わったのではなくて、水筒から飲むと違う味に感じるところまでは実証できた(理論は不明)。またおいしくコーヒーが飲めるのが楽しい。


※ 逆流性食道炎の改善のためにカフェインを控える実験をしようと考えたのは、改善を企図しているのは本当にそうなのだけれど、最近、コーヒーをおいしく感じない場面が増えたのも実はその背景のひとつ。カップでおいしく飲めることに気付いてしまったので、さあ、どうしよう。

服のしわが皮膚に転写されている

服のしわが皮膚に転写されている

ボトムスのウェスト・ゴムの跡が皮膚につくことは以前よりよくあることだった。ここ数年に加わったのは、特段きくつない靴下をはいていた日であっても、足がむくんでゴム部分の跡がつくこと。

最近に新たに加わった事象は、着ているシャツや履いているパンツのしわが皮膚に転写されていること。フィット感の強い服を私は持っていない。姿勢によっては普通のサイズ感・フィット感の服でも肌にはりつく感じの時があるが、そういう状態が長く続いた時のこと。ゴムとかはっきりと圧が掛かっていることが分かるものの跡がつくことは不思議ではないが、皺までが皮膚につくとなると、皮膚の弾力性に大いなる疑問が。単純なる老いならば残念ではあるが受け入れるが、運動不足で血行が悪いから?それとも、何か病気か?

少し心配ではある。

こっちに向かって虫が歩いて来る

こっちに向かって虫が歩いて来る

会社のトイレ個室に入っていた時のこと。名前を知らない虫がこっちに向かって歩いて来る。ムカデに小さな羽が生えたような感じだけど、飛ぶことはさなさそうな虫。

トイレでの用事は終わったあとだったので、私は自由に動くことができる状況にあり、体の位置を変えてみた。そうすると、その虫が向きを変えた私のほうに向かって歩いて来る。なんということだ。

たまたまかと思って、再度、体(足)の位置を変えてみる。そうすると、また同じことが起きた。アンビリーバブル。

もう一回やっても同じことが起きたので、体温なのか体臭なのか判らないけれど、何かの感覚で私の位置を認識したうえで虫が歩いていることの疑いが高いことがはっきりしたと言ってよいと思う。でも、なぜ私のほうに近づいてきたのだろう。私が生物だと認識していたとしても、大きさとかどんな生物かは認識できないと思う。もしかしたら、自分(=虫)を襲ってくるかもしれないような得体のしれない生物(=私)に向かって自分から近づいてくるだろうか。普通は逃げるのじゃないか。生物学に詳しい人と会う機会があれば聞いてみたい。

逆流性食道炎

逆流性食道炎

数年前に逆流性食道炎と診察された。会社勤めしていた当時の成人病検診では、上部内視鏡検査は含まれておらず、腹部超音波を診察に使用していた。最初は、エコーで胃粘膜下腫瘍を疑う所見と検査成績表に記された。検診後は、産業医との面談を行うことに会社のルールでなっていた。産業医は何名か所属していたが、私が面談をした産業医は、週に一度、内科の病院で勤務した関係で、上部内視鏡での確認をしてはどうかと提案をされ、それを受けてみることにした。

その時以来、上部内視鏡検査を受けた年は、逆流性食道と食道裂孔ヘルニアと診断されるようになった。

所見には、内服治療が必要とコメントされているのだけれど、海外にいるので継続的に通院もできずにいるのだけれど、初めて逆流性食道炎とコメントされる前の何年も前から胸焼けは自覚していたし、普段は飲まないオレンジジュースを飛行機内や宿泊先の朝食で飲むと、いつも以上に非常に強い胸焼けを感じたりもしていたので、食道から胃にかけてはちょっと荒れてるのかなあとは常々思っていた。

ながながと書いたけれど、今日思ったことは、次回の検診の前は、1ー2か月のあいだ、コーヒーを控えてみようということ。私はコーヒー中毒で、毎年の検診前の絶食時や、飛行機内で移動する際に自由にコーヒーを飲めない時間が半日でも続くと頭痛になる。所謂、カフェイン離脱からの頭痛。だから、コーヒーを控えるのは十分な準備をしてからでないと厳しいことになると容易に想像できる。しかし、好みの味のコーヒー豆が手に入りにくくなっているのもあるので、そろそろコーヒーも潮時というか、止める・減らすにはちょうどタイミングがよいのかもしれない。タバコは何年か前に辞めたし、アルコールもしばらく控えていた。これにコーヒーまで控えるとなると…という気持ちもないわけではない。だけれど、コーヒーと食道炎の相関を調べるには、一旦コーヒーを控えて検診を受ける以外にはないので、もしも何も変化がないならそのままコーヒーを飲み続けられるという検証になるので、来年はやってみようと思う。

雨の日

雨の日

雨の日は嫌いではない。「好き」と積極的に言えるまでではないのだけれど、嫌いではない。好きな側面はあまり見当たらないのだけれど、雨の日ならではな部分もあって、完全には嫌いになれないというのが適当な表現かもしれない。

私は、昭和の時代に小学生として過ごした。ステレオタイプな発想として、当時の多くの小学生と同じように、放課後は野球をして遊んだ。雨が降ると野球やそのほかの外の遊びができないので、家に一人でいることになる。当時に流行っていたゲームウォッチをはじめとした電子ゲームが我が家にはなかったので、雨の日はテレビを観るくらいしかやることがなかった(私の小学生時代は特に宿題とかなかったか極々少量だったような気がするので、宿題があっても学校の休み時間に終わっていたような記憶がある)。

だから、雨の日は家にいる日、というのが私の意識に今でも刷り込まれたままになっている。

とはいえ、家にいる日という認識と雨の日が嫌いでないこととは、特に関係がない。まあ、外出する選択肢がない分、ネガティブに作用しかねないことでもあるし。

雨の日ならではなことの一つに、匂いがある。ここ数年は、より化学的な説明がなされるようになってきたが、以前はアスファルトの匂いとして説明されていた、あの匂い。パブロフの犬ではないが、あの匂いは家にいる日のサインでもある。また、家にいる時に雨が降り始める時は、雨粒が屋根に当たる音が聞こえるような大雨ではない限り、いったん、静寂がおとずれてそのあとに雨が降り始めたことが分かる感じ。あれも、いとをかし。




追伸:外で競技を行う運動部に在籍していた高校生当時は、雨の日は校舎内を走り回ったり柔道場でサーキットトレーニングをしたりするので体力的にきつかった。通常の練習よりも時間は短く、日が暮れる前に学校を出ることができたのでその点はよかったのだけれど、雨合羽をきて自転車で40分くらいかけて帰るのがつらかった。